記憶と行動は対立するか ゴースト・イン・ザ・シェル
世界でただ一人、脳以外は全身義体の世界最強の少佐(スカーレット・ヨハンソン)率いるエリート捜査組織公安9課は、ハンカ・ロボティックスの推し進めるサイバー・テクノロジーを狙うサイバーテロ組織と対峙。しかし、捜査を進めるうちに事件は少佐の脳に僅かに残された過去の記憶へと繋がり、彼女の隠された過去を呼び覚ますのだった。「私は誰だったのか……」やがて、彼女の存在をも揺るがす衝撃の展開へと発展していく……。
ゴースト・イン・ザ・シェル | 映画-Movie Walker
1995年のアニメ映画版は、人はただ記憶によって個人たりえると主張した。実写版はアニメ映画版の筋書きにほぼ従う一方で、異なった解釈をする。個人を定義するのは記憶ではない、とミラは言う。「私たちはまるで記憶が自分を定義するかのように振る舞うが、私たちは私たちが何を成すかで定義される」と訴えている。
原作に忠実ではないし、理解に苦しむ。
ハリウッド版『ゴースト・イン・ザ・シェル』に描かれなかったサイボーグの未来 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
「私たちはまるで記憶が自分を定義するかのように振る舞うが、私たちは私たちが何を成すかで定義される」とミラ(スカーレット・ヨハンソン)は言うのだが、この物語の大半で彼女は自分の記憶を探し求める。それはわれわれの記憶とわれわれが何を成すかは対立するものではなく、記憶が我々の行動を促すからだ。それ故にハンカ・ロボティクスの社長のカッター(ピーター・フェルディナンド)はミラの過去の記憶を消去し、両親がテロリストに殺されたと偽の記憶を植えつける。そうすればミラはテロリストを憎むようになりテロを憎むようになり、テロの対策を実行するのにうってつけの人物になりうる。彼女はテロ、テロリストと名付けられたものを撲滅することを迷わない。カッターは記憶のコントロールを目論んでいた(もう少し大きなスケールなら良かったのだが)。そしてこの映画でテロリストと呼ばれるのは、そういった記憶のコントロールを妨げるもの、つまり記憶を持つものである。クゼ(マイケル・カルメン・ピット)はミラの行動を変えうる記憶を保持している。ここまで来ると偽の記憶を植えられテロリストの尋問にバトーが言う「(記憶が同じなら)現実と夢に違いはない」はどこか虚しい。
この映画を自分探しの映画と見る人もいるだろうが、この場合の自分探しとは何なのかは考えておいたほうがいいだろう。その自分というのは前からあったものを探しているのか、それともないものを探しているのかで性質は異なる。この映画は明らかに前者なのだが、身体や記憶を奪われるということは、自分の部屋を勝手に片付けられることに似ているのではないかと思う。デネットはこんな話を紹介している。
一般的に観察されていることだが(例外がないわけではない)、自宅から病院に移された老人は、基本的な身体の欲求がみたされているにもかかわらず、すっかり能力が衰えてしまう。往々にして合理的な判断力を失い、自分で食事をしたり、着替えたり、身体を清潔にしたりすることができなくなり、ましてやなにかに興味を持って活動することなど全く不可能になるようだ。ところが、いったん自宅に戻ると、自分のことはきちんと自分でできるようになることが多い。
なぜこんなことが起こるのだろうか。老人は長年にわたって、自宅という環境のなかに日常の行動をうながしてくれる目印を刻みつけており、それによってなにをしなければならなにか、どこに食物があるのか、どのように服を着るのか、どこに電話があるのかなどを思い出しているのである。したがって、まったく基本的なことであっても、新しい学習だと徐々に脳が受けつけなくなってくる老人でも、いたるところに目印がつけてある環境でなら、自分で自分のことは処理できるのだ。老人を自宅の外に連れだすことは、老人をその知的能力から切り離すに等しく、脳手術を受けさせるのと同じくらい破壊的な行為なのである。(p221,222)
『心はどこにあるのか』 ダニエル・C・デネット
このことを踏まえると、この映画は自分探しというよりも自分の部屋を探す物語であるように思う。自分の部屋とは自分の身体を動かす目印のついている場所のことである。自分以外の誰かに片付けられた部屋ではかつての目印が見えにくくなってしまうが、ミラも義体に換装直後はその状態に似たひどい状態にあるのではないかと思う。もしミラがその目印を見つけられたなら、それは彼女の行動を促すだろう。その目印がある部屋はぎこちなく動く完全義体の彼女でも自然に身体が動き振る舞うことのできる場所だろう。彼女が探しているのはそういった場所だ。このことは単なる記憶喪失ではなく身体が奪われていることが多分に関係している。
私は脳はパントマイムの器官であり、しかもパントマイムしかできない器官だと言うでしょう。脳の役割は精神の生を模倣することであり、また、精神が適合しなければならない外的な状況をも模倣することです。精神の活動にとっての脳の活動の関係は、交響曲にとってのオーケストラの指揮者のタクトの運動の関係です。それと同じように、精神の生は脳の生を超えます。しかし脳は、精神の生から、運動のかたちにして演じうるもの、物質化できるものをすべて取り出し、そしてそれによって物質のなかに精神が入り込む点を構成しますから、まさにそのことによって脳は精神が状況に適応することをつねに保証し、精神をたえず現実と接触させておくのです。したがって、正確に言うと脳は思考・感情・意識の器官ではありません。そうではなくて、脳は意識・感情・思考が現実の生活にむけられているようにし、その結果として、効果的な行動ができるようにしているのです。お望みならば、脳は生への注意の器官であると言っておきましょう。(p61)
『精神のエネルギー』ベルクソン
観客の側からはわかりにくかったが(もしも脳だけが自分のものとして残っているのなら仕方がないのだが)ミラの脳の母親(桃井かおり)は現在のミラの外見はかつてのそれとまったく異なるのだが、ミラと会話しているうちにもしくは一目見たときからだろうか「ミラが自分を見る目の動きが娘に似ていた。」と言う。それはミラの脳が自然に勝手に身体を動かすことを促す目印を見つけたからだろう。ミラは脳の働きとして自分の知らないうちに過去の自分のモノマネ(パントマイム)をしていたのだ。ミラは何となく気まずくなってその場から立ち去るが、彼女が探していたのはそういう部屋だった。今の自分でないものが勝手に溢れてくるような部屋だ。それは『イノセンス』で言われていた「外部記憶装置」のような大仰なものではなく極めてパーソナルなものである。
【3月29日 AFP】(更新)約10年前に交通事故に遭って以来、両肩から下がまひした状態だった米国人男性が脳に電極を埋め込む手術を受け、ケーブル、コンピューターのソフトウエアを駆使して脳と筋肉の回路を復活させ、自ら食事ができるまでに回復したとの画期的な医療報告が29日、英医学専門誌「ランセット(Lancet)」で行われた。
目覚ましい進歩のポイントは神経プロテーゼ(人工器官)を使用し、脊椎損傷部分を治療せずにむしろ迂回(うかい)したことにある。
研究論文の筆頭著者である米ケース・ウエスタン・リザーブ大学(Case Western Reserve University)のボル・アジボアイ(Bolu Ajiboye)氏はAFPの取材に対し、慢性的な重度のまひ患者が、自身の脳活動を直接利用して自らの腕と手を動かし機能的動作を行った例は、自分たちでも知る限り世界初だと述べた。
研究者らはまひの原因となっている脊髄損傷を治療する方法を模索しているが、まだ見つかってはいない。そこで次善の策として研究が進められているのが、脳と体の筋肉の回路を再び接続する方法だ。
研究チームの唯一の患者、ビル・コシャバー(Bill Kochevar)さん(56)の脳には、2か所に小さな豆粒ほどの電極が埋め込まれている。この電極が脳の信号を読み取り、コンピューターが解析。そして筋肉が、腕に埋め込まれた電極から命令を受け取る。
世界初 四肢まひ患者、脳に埋めた電極の信号で自ら食事 報告 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News
現実世界では、ネットワーク化された意識というのはすでに存在している。タッチスクリーンやキーパッド、カメラ、携帯電話、クラウドなどを通して、私たちは政府の調査や管理、広告主などに私生活をさらし、以前にも増して直接かつ即時的に、日々拡大していく社会の輪に参加している。
(中略)
筆者の研究室では、人間と同じような記憶力をもった人工知能(AI)ロボットの研究をしている。システムと人間の脳の融合は、現在の科学技術では不可能だが、数十年後には実現可能かもしれない。電子インプラントが記憶や知能の進歩に役立つようになれば、試してみたい人も多いだろう。このような科学技術はまさに生まれようとしており、『ゴースト・イン・ザ・シェル』のようなSF映画は、人間が人間の能力を根本的に変えうる力を過小評価すべきではないことを教えてくれる。
ハリウッド版『ゴースト・イン・ザ・シェル』に描かれなかったサイボーグの未来 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
9/10/2020
更新
コメント