「風景が違って見える」 美女と野獣
ある時、ひとりの美しい王子(ダン・スティーヴンス)が、魔女の呪いによって醜い野獣の姿に変えられてしまう。魔女が残した一輪のバラの花びらがすべて散る前に、誰かを心から愛し、愛されることができなければ永遠に人間には戻れない。呪われた城の中で希望を失いかけていた野獣と城の住人たちの孤独な日々に変化をもたらしたのは、美しい村の娘ベル(エマ・ワトソン)であった。聡明で進歩的な考えを持つベルは、閉鎖的な村人たちになじめず傷つくこともあったが、それでも人と違うことを受け入れ、かけがえのない自分を信じていた。一方、野獣は人と違う外見に縛られ、本当の自分の価値を見出せずにいた。そんな二人が出会い、やがて惹かれ合っていくのだが……。
美女と野獣 | 映画-Movie Walker
(Beauty and the Beast – US Official Final Trailer - YouTube) |
ベルが近づかないよう忠告されていた西の塔でガラスで蓋をされていた薔薇を見つけると、野獣が「ここで何をしている、それは大事なものだ近づくな出て行け」とまくしたて、ベルは大急ぎで城を出ることを決意する。しかし森には凶暴な狼がいてベルと彼女の馬はそれらに取り囲まれてしまう。ベルが傷つきそうになる既のところで野獣が彼女を助ける。野獣は狼を追い払うもひどい怪我を追ってしまう。ベルは家に帰ることもできたのだが、野獣の看病のために城に戻ることにする。ベルはなぜこのような傲慢な王子に仕えているのかと疑問に思い、様々なアンティークに姿を変えられてしまった城の使用人に尋ねる。使用人たちは王子は昔はやさしかったのだが、母親を亡くしてからひどい父親だけに育てられて性格が変わってしまったのだという。野獣はその日母親が亡くなる前のことを思い出す。そしてベルも物心がつく前に母親を亡くしていた。彼らには共通点があった。そこから彼らは親密になっていく。
看病の合間にベルが本を読んでるのを見て、野獣は本に興味があるのかと尋ねる。彼らは二人でシェイクスピアの話をすることができることに驚く。野獣は自分は一応高等な教育を受けてきたのだという。野獣は城の図書館にベルを案内する。ベルの村の中には本が10冊ほどしか無かったので、城の蔵書の豊かさに感激する。ベルと野獣は庭で散歩をしながら、彼女は本を声に出して読む。すると、急に本の内容が目の前の風景とつながりはじめ野獣は「今までと風景が違って見える」とつぶやく。
コンディヤックは記憶と想像力の違いに関してこう述べている。
想像と記憶と想起との間には一つの発展が貫かれており、その発展段階によってのみこれらの三者は区別される。最初のもの[想像]は、様々な知覚それ自体を思い浮かばされる。第二のもの[記憶]は、知覚の記号、もしくはそれが置かれていた状況のみを呼び起こさせる。最後のもの[想起]は、ある知覚を、それがかつて経験したあの知覚だという形で再認させる。(中略)ある対象が存在しなくなった後でもそれを考え続ける場合、その対象の知覚自体を保存しようとする場合には観想は想像の性質を帯び、それの名前や状況しか保存しようとしない場合には記憶の性質を帯びるのだ、と。(p68)
『人間認識起源論(上)』コンディヤック
野獣が庭の凍った池とその後ろに続く森、山、太陽のある風景を見て、「風景が違って見える」とつぶやかざるをえなくなったのは、それが記憶の対象つまり名前や状況に関する事柄ではなく、もっと直接的な知覚に関する事柄に変わったからに他ならない。それは自分の心情を表現する比喩の対象になったのだ。それが可能なのはベルが隣にいるからに他ならない。彼女がいることで自分が思うことや感じていることを名前にしようと思っても、それは一般的な名前として名付けることができない。なので、人間は比喩に頼ることになる。直接的なものをより直接的に表現するために。
あらゆる明証は直観的なものであるが、そればかりでなく、事物の真正な理解も、すべて直観的なものである。このことはすでに、あらゆる国語にみられる無数の比喩表現が証拠だてている。というのは、これらはみな、抽象的なものをすべて直観的なものへ引きもどそうとする試みだからである。何かある事柄についての抽象的な概念だけでは、決してそのものの本当の理解が得られない。(中略)およそ何事かを本当に理解するためには、それを直観的に把握し、それについてのはっきりした像を抱き、それもできれば現実そのものから、さもなければ想像力によってその像をうけとることが必要である。(p83,84)
『知性について』ショーペンハウエル
(Beauty and the Beast – US Official Final Trailer - YouTube) |
この映画自体が巨大な比喩であるとしたら、あとはあらすじを書くだけで十分だろう。
親密になった二人はダンスをし野獣はベルに愛の告白をする。けれど、ベルはどこか不安を感じており「自由がないのに幸せになれるの?」と問い、その問いが同時に父親モーリスへの心配となって、野獣を完全に受けいれることができない。遠くにいる人物を見ることができる魔法の鏡でモーリスの様子を見てみると、彼は村人に拘束されている。ベルとの結婚を狙っているガストン(ルーク・エバンス)が「娘とは絶対に結婚させない」といったモーリスを邪魔者扱いし精神病扱い危険人物扱いにして施設に送り村から追い出そうとしていたのだ。ガストンはモーリスを木にくくりつけ殺そうとしたのだが、モーリスは運良く(?)アガットに助けられ一命をとりとめ村へ戻っていた。モーリスはその事実をガストンに突きつけると精神病、危険人物扱いにされてしまった。事実を知るアガットは物乞いで発言に信用性がないとみなされ、ル・フウはガストンに対する個人的な感情か彼の力に対して屈したのか事実を言わない。野獣がいるとかポットが喋るとか頭がおかしいだろうというわけだ。ベルはその様子を見て「父を助けないと」と城を出たいと野獣にいう。野獣はもう少しで薔薇の花が全て落ち魔女の魔法が完全になってしまうのだが、それを受けいれる。ベルは村へ戻り野獣は自分の胸の痛みを歌う。ベルは村へ戻ると父親の言ってることは本当だという。そして魔法の鏡で皆に野獣は実在すると見せる。こうしてモーリスの発言の信用性が増してくるとガストンは論点をすり替え今度は攻撃の矛先を変え、野獣こそが我々の敵だといって村人たちをたきつける。ベルが野獣は優しくて紳士的だといってもきかない。ガストンは(料理番組が嫌いな 帰ってきたヒトラー|kitlog)『帰ってきたヒトラー』で自分の正体を知ったものを精神病院送りにしたヒトラーのように言論を統制する独裁者である。ベルはここでこそ「自由がないのに幸せになれるの?」と問うべきだっただろう。ガストンは村人とともに野獣の城へ野獣狩りに向かう。ガストンは野獣と対峙する。ベルを失ったと落胆している野獣は無気力になっており、ガストンに一方的にやられてしまうが、ベルが城へ戻ったことで息を吹き返しガストンに勝利する。けれど、野獣はその戦いで銃弾を何発も体にうけ瀕死の状態になり、ベルが遠くへ行ってしまって悲しかったのに今度は私のほうが遠くへ行かないといけないといって悲しむ。そして、最後の薔薇の花弁が落ちてしまう。野獣は死に、喋るアンティークは純粋なアンティークに変わってしまった。しかしベルが野獣にキスをすると、それを見ていた物乞いのふりをしていた魔女のアガットが薔薇を復活させ城全体にかかっていた魔法を解く。すると、野獣は王子の姿に戻りアンティークも使用人に戻り、村人たちの忘れていた城の記憶も復活した。すべてが元通りになった城で、王子とベルによって今度は様々な人を集めて舞踏会が行われている。
演劇は人間がいなければありえないものだが、映画におけるドラマは俳優なしでも成り立ちうる。パタンと閉じる扉や風に舞う木の葉、浜辺に打ち寄せる波、これらはそれだけでドラマチックな力をもちうるのだ。(中略)確かジャン=ポール・サルトルがいっていたように〔サルトルが一九四九年に行った講演「演劇の様式」を指すか〕、演劇では俳優からドラマが生じるが、映画ではドラマは背景から人物へと進んでいく。(p260,261)
『映画とは何か(上) (岩波文庫)』アンドレ・バザン
9/10/2020
更新
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