2016映画ベスト10

ちょっと12月に入ってから全然映画を観ることができていないのですが、今年中にローグワンは見ておこうと思います。(2015映画ベスト10と映画記事まとめ|kitlog)去年と同じように映画館で観たものしかランキングに入れていませんが、今年も10個に選ぶのは大変なくらい面白い作品が連続して毎月のように上映されました。素晴らしい。来年も名作を観れますよう。



1.君の名は。

接合の正義 君の名は。|kitlog
2回目を観に行こうと思っているのですが、いまだに観ることができずにいます。
メタ 『シン・ゴジラ』としての『君の名は。』|kitlog
この記事は誤解があるかもしれないので改めて書いておくと、『シン・ゴジラ』と『君の名は。』の優劣をつけているものではなく、震災からその後の人々の復興への歩みを経てまた震災に遭遇させられるような『シン・ゴジラ』という映画と出会うという現実的な時間の流れを、『君の名は。』という映画がメタ的にとらえるような形で映画の中で再現しているという意味です。私のなかでは映画体験として二つがセットになっています。
音楽と映画 『君の名は。』のメモ|kitlog
ニーチェを読んでいて良かったです。

2.シング・ストリート

シング・ストリート to find you|kitlog
映画用のオリジナル曲がどれも素晴らしい上に、そのどれもが主人公の心情と重なっている(主人公が本当に作詞作曲していたら当たり前のことなのだけど)。

3.レヴェナント、ヘイトフルエイト

復讐は創造主の手で:密室と荒野 レヴェナント:蘇りし者|kitlog
上の記事にほとんど書いてあるが、改めてわれわれは「誰にも見られていない」「誰かが見ている」二つの状況にいるということを認識させられた。
理念は予め存在し宙吊りにされあとからやってくる ヘイトフル・エイト|kitlog

4.ルーム

二つのROOM ルーム|kitlog
誘拐事件の犯人に対する被害者の服従の関係と宗教における絶対者(実質的には教会)と信者の関係が暗に対比されています。
欧米の宗教組織に関してもう一つだけ意地の悪いことを言わせてもらうと、こうした組織が要求し期待しているのは、「われわれが用意した子宮から出て行ってはならない」ということです。(p348)

『生きるよすがとしての神話』ロバート・キャンベル

5.ズートピア

理性の弾丸 当事者を不在にする力 ズートピア|kitlog
例えば「イザヤ書」第六十五章の終わりに、万民の究極の平和という、人をあざむくイメージがあって、頻繁に引用されてきました。「狼と子羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」。ところが、同じ「イザヤ書」の少し前で、以下のように、来るべき平和の理想が実際にはどのようなものであるかが、すでに明かされています。(p288)

『生きるよすがとしての神話』ロバート・キャンベル

6.オデッセイ

RU f- kidding me? or RU f- kidding me? オデッセイ|kitlog
デビッド・ボウイの『Starman』を「教えて」くれた。

7.この世界の片隅に、帰ってきたヒトラー

空想の右手 この世界の片隅に|kitlog
この二つもセットになっているのですが、『帰ってきたヒトラー』の方では過去から現代にヒトラーがタイムスリップしてきて、現代の生活に慣れないヒトラーが見せる戸惑いや時代錯誤に見える差別的でありながら説得力のある演説が映画の中の観客と外の観客を笑わせるのだけど、そのうちそれが笑っていてよかったのかという、ヒトラーが現代に来て味わったような戸惑いを感じさせる。笑いは機能として対象を「大した事ない」と思わせるが、私たちは笑っていてはいけなかったのではないか。それに対して『この世界の片隅に』の主人公は『帰ってきたヒトラー』の観客のように笑っている。そうやって主人公はずっと状況を大したことがないと思わせ続けていたのだが、それは同時に泣くのを我慢していたのだとあとから気付かされる。それはわれわれも同じだろう。
料理番組が嫌いな 帰ってきたヒトラー|kitlog

8.シビル・ウォー

超人が超人であるために シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ|kitlog
理性の諸原則を形式化し、「手続き化」することは、急場しのぎにすぎず、いざ詳細な規定が必要になっても、なんら具体的な成果を約束するものではない。結局残るのは、事実に抵抗してまで理性に執着するか、単なる意地か、嘆きか、諦めか、という選択だけである。もちろん、理性を放棄することはむずかしい。しかし、おそらくわれわれは、この間、現実が変わってしまったにもかかわらず、理性という文化的ゼマンティック上の歴史的ブランド名に忠実であり続けているだけであろう。いずれにせよ、理性に定位して社会の統一を反省するのではなく、それと同様な機能をもつ、他の道を求めるのは価値あることにちがいない。(p118)

『自己言及性について』ニクラス・ルーマン

9.デッドプール

仮面の告白 デッドプール(Deadpool) ボーダーライン(原題Sicario)|kitlog
たとえば、この時代は「仮面を剥がれた不安の時代」とさえ性格づけられたのである。この性格づけは、具体的個人の精神状態に関する規定をふくんでいるわけではないが、公共のレトリックのなかでの価値への言及について、なにごとかを伝えてくる。公共の問題として、不安はア・プリオリなるものの代用品となるまでに発展する。すなわち、不安は議論されず、論破されず、また癒されることもない。不安は、コミュニケーションのなかで、つねに真正なものとして現れるのである。心配を表明しているひとに、「君はまちがっている」と応答することは不可能である。(p135)

『自己言及性について』ニクラス・ルーマン

10.ちはやふる上の句、ハドソン川の奇跡

世界は暗号でできている ちはやふる 上の句|kitlog
二つはセットではなく同じ順位ということで。
『ちはやふる』は過去の歌を自分の解釈で自分のものにしたのがよかった。それも作者の意図とはまったく違う形で。下の句はその部分が少し弱かったと思う。『ハドソン川の奇跡』は主人公の悪夢が実は彼の自信であるところに面白さを感じた。
2種類のシミュレーション ハドソン川の奇跡|kitlog
9/10/2020
更新

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