死ぬことを盗まれること 少女
――人が死ぬ瞬間を見てみたい。本当の意味で「死」に向き合えると思うから。
高校2年生の夏休み、由紀(本田翼)は小児科病棟でボランティアをしていた。夏休みに入る少し前、転校生の紫織が「親友の死体を見たことがある」と少し自慢げに話していたことに、言い知れぬ違和感と、ちょっとした羨ましさを感じたのだ…。それならば自分は紫織よりも強く「死」の瞬間を目撃したい。そして、その時を誰よりも面白く演出したいと考えた由紀は、残酷にも短い生命を終えようとしている少年たちと仲良くなり、自らの思いを遂げようと画策していた。
一方、由紀の親友である敦子(山本美月)もまた、由紀には告げずに老人ホームでのボランティアに出かけていた。陰湿ないじめにあい、生きる気力を失いかけていた敦子は、人が死ぬ瞬間を見れば、生きる勇気を持てるのではないかという淡い期待を持っていた…。 高校2年生の夏。心に闇を抱えた「少女」たちの衝撃的な夏休みが今、始まる…。
少女|東映[映画]
(『少女』予告編 - YouTube) |
珍しく公開前に原作を読んでいたので、話のあらすじや小説の表現のスタイルみたいなものは知っていた。それについて一度どこかで感想を書いたのだけど、それがちょっと手もとに戻しにくいところへ行ってしまっていて、大体何を書いたのかは覚えているのだから大丈夫なのだけど、その時に書かれた細かいニュアンスは思い出すわけにはいかないので(それは今考えて上書きしたことになってしまう)ちょっと見せてもらいたいと思うが、とにかく大筋は覚えているので大したことってわけでもない。小説は由紀と敦子が交互に一人称でそれぞれにその時どう思っているのかを書くというもので、あることをきっかけに二人にすれ違いが起きて、そのすれ違いを一人称の交代で描きながら徐々に収束させていく。
二人がすれ違うきっかけというのは、彼女らの国語教師小倉(アンジャッシュ)が由紀の書いていた小説を盗み文芸誌に投稿したことだ。それは由紀が書いたものだと敦子には分かった。自分が小説のネタにされているとほとんど確信的に思ったからだ。敦子にとってそれはLINEのグループチャットで自分のことをA子だとほのめかして、安全な位置に立ちながら(未遂のシング・ストリート 聲の形|kitlogに書いたようにコミュケーションの失敗の可能性を残しながら)「A子死ね」と言っている連中と変わらなく見えた。由紀は友だちと思ってたけど由紀もそっちの側の人なのかと疑ってしまった。それから彼女らはすれ違い二人の間に人が死ぬところを見たという転校生が現れて、死を見たいと思うようになる。
映画ではこのあたりのつながり、二人のすれ違いと死を見ることへの興味に何か唐突な感じがして、死を見たいというエピソードが何か半端に挟まれた不必要なものに感じた。彼女ら二人のすれ違いの和解がこの映画のクライマックスだと思うが、そこに至るためになぜ死について興味をもたないといけなかったのだろうと思ってしまう。その中で認知症者の異常性とあるおっさんの変態性が突出しているために、その死に対する執着も似たようなもの変態性異常性に関するものなのではないかというふうに見えてしまう。単に変なものが見たいという牧野(真剣佑)と彼女たちは同じなのだろうか。
由紀がされたことを前回『聲の形』を見ているのでそれを絡めて表現しよう。『聲の形』において聴覚障害者の西宮硝子の妹・結弦は、姉に自殺してほしくないために虫や動物などのその辺に転がっている死骸を写真に撮って部屋の壁中に貼っていた。死ぬことがどういうことかが分かれば自殺することを思いとどまってくれるかもしれないと思ったからだろう。それは硝子には伝わらずに彼女は自殺をしようとしてしまい、結弦は伝わらなかったことに泣いた。けれど、彼女の写真で被写体が死骸でないものを母親が勝手に賞に応募しそれが認められた。彼女はそれによって外に出る機会を得られるかもしれない。結弦が硝子に自殺しないように死なないようにと表現したものが別の形で外で認められたのだ。結弦の写真は死の代理(外に通じる)で硝子には死ではなくその代理で耐えてほしいと思っていた。由紀がされたのはそのような死の代理物が盗まれたことに等しい。由紀は死の代理が盗まれてなくなったために死に取り憑かれて、外に出る機会も失ってしまった。彼女はスモールワールドに閉じ込められてしまった。原作にも映画にも「自殺するやつは考えが浅い」みたいにいう箇所があるけど、それは他人に死ねばいいとかいうのも同じで世界が小さいということに途中の由紀は気づいてないかもしれない。
由紀の小説は同時に敦子への手紙だった。同級生が使う「A子死ね」「A子死ねばいいのに」に対抗するためのそれだった。それは奪われて宛先を変えられて中身は同じだが別のものに変化してしまった。読んでもらうタイミング、読んだあとのフォローなどのあらゆる個人的機会を奪われて、それは敦子に読まれてしまった。その小説がわたしのものだという正当な機会も失って。それが最後に回復するわけだけど、この映画だと単にトラウマの話みたいになっててちょっと違うんじゃないかなと思ってしまう。
9/10/2020
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