自然に対する抵抗はどこへ アニメの背景 レッドタートル ある島の物語
嵐で荒れ狂う海に放り出された男が、九死に一生を得て無人島に漂着する。男は島からの脱出を試みるが、不思議な力で何度も島に引き戻されてしまう。そんな絶望状況の中、男の前にひとりの女が現れ……。
レッドタートル ある島の物語 : 作品情報 - 映画.com
(『レッドタートル ある島の物語』予告 - YouTube) |
「よく『ジブリらしさ』と言われますが、それを一番わかっていないのが僕なんです。何をもって『ジブリらしさ』なのかなと。絵のタッチが違うとか、そういうことは人に指摘されて初めて知ったくらいですから。根幹的なことで言えば、ジブリは『絶望を語ってはいけない』。アニメは子供が観るものだから、それはいつも心のどこかで思っています」と表情を引き締める。
『レッドタートル』はジブリっぽい? ぽくない? そもそもジブリらしさって何だ(2/2) - シネマトゥデイ
この映画の特徴はキャラクターが自然に対して無力なところだろう。海は二度荒れ狂うが人は何もできない。荒波に飲まれては流されるまま島に打ち上げられることになり、島を襲う大津波には逃げる他なく運良く逃げ切れるか大怪我をするか沖に流されるか。それは一種のリアリズムだがジブリ映画だと聞いて期待するのはそのようなリアリズムではないのではないか。
演劇は人間がいなければありえないものだが、映画におけるドラマは俳優なしでも成り立ちうる。パタンと閉じる扉や風に舞う木の葉、浜辺に打ち寄せる波、これらはそれだけでドラマチックな力をもちうるのだ。(中略)確かジャン=ポール・サルトルがいっていたように〔サルトルが一九四九年に行った講演「演劇の様式」を指すか〕、演劇では俳優からドラマが生じるが、映画ではドラマは背景から人物へと進んでいく。
『映画とは何か(上) (岩波文庫)』アンドレ・バザン p260,261
この映画は人間よりも背景に力点が置かれてるように思う。普通は人間に力点が置かれるので、そのバランスが違うだけで背景に力点があるように思うだけかもしれない。セリフのないことで人間も背景が発するざわめきのようなものと変わらないのではないかと思わせる。劇中で最も滑らかに動いているのはなぜかコウモリだった。いや、滑らかというよりは一シーンだけ背景の奥へと飛んでいくコウモリだけが何かジブリっぽいのだ思ったのかもしれない。
背景と言えば今年は『君の名は。』がヒットしている。この映画は背景の描写にこだわっていた監督が震災で描かれるような背景が簡単に壊れることを知って、それを忘れないためにも更に一層背景を書くということのこだわりに確信を持つというものだと読める。だから壊れた背景はどんな方法を使ってでも復元されなければならないのだ。では、ジブリ映画はどうか。ジブリ映画というか人が期待しているような宮崎駿映画。私の全く個人的な印象であるが、そこでは背景が簡単にぶっ壊れるのだけどそれでも主人公たちは走って切り抜けていくという感じがする。壊れる背景の中をものともしないで進んでいくというか。ぱっと思いつくのだとラピュタとかポニョとかだとそういうイメージがあると思う。その描写は自然法則を超えていると思う。もし背景に崩壊のイメージがない場合は飛行することが主題になっていると思う。飛ぶこと自体がたとえ実際の航空機を描いていても自然法則に則っていながら中々そう見えないというか、なぜ飛んでいるのか分からない不思議さがあるからではないかと思う。実際はじめは人間は鳥のように羽をバサバサとさせて飛ぼうと思っていたわけで、そのせいでなんとなく物理法則を超えている可笑しみがあるのだと思う(鳥を飛行機にするような変換がアニメーションなのだろうか)。そのことを踏まえてみると『レッドタートル』にでてきたコウモリはなんとなく他と違って機械のようなコウモリだった気がする。本当単に気がするだけなのだが、何かそういう自然と違ったものや自然を超えたものが意図的に入り込んだり混ざり込んだりしているという感じがこの映画にはないので、そこにアニメーションの希望は本当にあるのだろうかと思った。
9/10/2020
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