複数の願いと複数の時間 ドラゴンボールZ 復活のF
(劇場版『ドラゴンボールZ 復活の「F」』)
昔の『ドラゴンボール』の映画についてちょっと見ているとどれも上映時間が一時間いかないくらいで驚いた。一本、二時間弱くらいかなと思っていたので意外だった。(ドラゴンボールZ この世で一番強いヤツ : 作品情報 - 映画.com)や(ドラゴンボールZ 激突!!100億パワーの戦士たち : 作品情報 - 映画.com)がとても印象に残っているが、もう上映は20年以上前か。子供の頃は映画館に行く習慣がなかったので、というか徒歩や自転車で移動できる範囲にないし車でも結構遠い、もっぱらビデオを借りて、家族で外食にいったときについでにレンタルビデオ屋も行くというお決まりのコースがあったような気がするがあまり覚えていない。
今回の映画はおそらく3D向けということでバトルシーンがかなりの時間を占めている。そのためかストーリーはすごく単純でフリーザが復活して復讐にやってくるというものだ。ストーリーとしては少し物足りないかもしれない。上に挙げた昔の二本はテクノロジがテーマになっているけど、今更そういうものが悟空とかベジータの脅威になる感じがしないのでどうするんだろうという感じがある。しかも横に本物の神がいて彼らには誰も敵わないということになっている。彼らは余裕綽々と戦闘中もデザートを食べていて、しかもピンチになったときに時間を戻すこともできる。そういう存在が横にいて果して『ドラゴンボール』が成り立つのだろうか。ここにいる神は言ってみれば、『ドラゴンボール』の世界の外にいてゲームのリセットボタンを押すような存在である。『ドラゴンボール』はキャラクターの生き死にはあるが基本的にはスポーツの比喩で物語が動いていると思っていた。しかし、ウイスのような物語の外側でプレイヤーの役をするキャラクターがいるとそれがゲームの比喩に変わってしまう。これでいいのだろうか。
『ドラゴンボール』は後半にそれが形骸化したとはいえキャラクターがそれぞれの願いを叶えるためにドラゴンボールを七つ集めるという設定で物語が進んでいく。最近『リトル・ピープルの時代』を読んで思ったのだけど、『ドラゴンボール』のこの設定だけを見ればこの本にある「バトルロワイヤル系」と分類されてもおかしくない。『リトル・ピープルの時代』では「バトルロワイヤル系」として『仮面ライダー龍騎(以下、龍騎)』が出てくる。
『ドラゴンボール』も『龍騎』もともに何かを奪い合ってある条件を達成すれば、どんな願いも叶えることができることは共通だ。しかし『龍騎』の方はこの本によれば願いは一つしか叶わない。しかも殺しあって生き残ることが条件なので願いを叶えるときには、自分以外の者が死んだあとで必ず一人である。『ドラゴンボール』のほうはといえば、誰かがドラゴンボールを七つ集めて願いを叶えたとしてもドラゴンボールの効力がなくなるのは一時的なもので、また時間が経てばそれらを集めなおして願いを叶えることができる。なのでボールの取り合いになったとしても殺しあうことなく、自分の願いのほうは後ででもいいかという選択や交渉の余地がある。『ドラゴンボール』と『ドラゴンボールZ』の境目、天下一武道会で悟空とマジュニア(ピッコロ)の決着がついたあとで亀仙人は「あなたのつくられたドラゴンボールがなければ今の孫悟空やここにいる者たちの成長や出会いはなかった…たった1個のドラゴンボールからすべてが始まり そして世を守ったのです 」というが、殺しあって一人の世界ではそのような台詞は絶対に出てこないだろう。
『龍騎』の世界は不景気を反映しているのだろうが、全然利害の衝突しないものたち(Aが自分の病気を治したいということとBが復讐を遂げたいということは全く関係がない)がたった一つのものをめぐって、その一回性をめぐって殺しあう。ただ一方でこれはゲームの比喩なので、ある孤独なプレイヤーが時間を戻すことと親和性が高い。バトルロワイヤルの決着がついてしまったらそれ以上話を続けることができない、なぜなら皆死んでしまっているから。ゲームでいえば、クリアしてしまっているから。もう一度プレイしようと思うと、はじめからやり直したり、セーブポイントからやり直したり、リセットボタンを押したりする。何度もそれを行う。それは全て一人のプレイヤーがやっている。彼(彼女)が誰かと出会うとしたら、このすごくマイナーなゲームを何十時間と自分と同じようにプレイしている奇異な人を見つけるということだけである。そんな人は滅多にいないし(そこに奇跡があるのだろうけど)彼(彼女)はずっと孤独のままだ。プレイヤーが動かしているキャラクターがゲーム内設定以上に成長するわけがなく、プレイヤーのリセット前後の記憶を覚えているということもない。それはゲームをしている彼だけが覚えている。
『ドラゴンボール』では複数の願いが叶うことで時間が戻らず記憶が続いていくという風になっているところを、あるところで記憶を断絶させて時間を戻すという物語がある。あまり多くの作品を知らないのだけど『龍騎』『オール・ユー・ニード・イズ・キル』『まどマギ』等、ゲームの比喩のフィクション作品。辛辣な現実(願いが一つしか叶わない、殺し合い)が描かれるが実はゲーム、一人が孤独にたくさんプレイしているみたいなのって、単に貧困だと思うので今はあまり好きになれない。なので、ウイスが今後何度も時を戻すようなことがあるとしたらと思うと不安である。スポーツの比喩でやったほうがいいんじゃないかと思うのだけど。
破壊神ビルスとの戦いの後、再び平和が訪れた地球にフリーザ軍の生き残りであるソルベとタゴマがドラゴンボールを求めてやってくる。神龍によって願いはかなえられ、よみがえったフリーザは新たな軍団を率いて悟空たちサイヤ人に対して復讐を開始する。劇場版前作「ドラゴンボールZ 神と神」で登場した破壊神ビルスとウイスも引き続き登場し、鳥山のコミック「銀河パトロール ジャコ」の主人公ジャコも参戦している。
ドラゴンボールZ 復活の「F」 : 作品情報 - 映画.com
昔の『ドラゴンボール』の映画についてちょっと見ているとどれも上映時間が一時間いかないくらいで驚いた。一本、二時間弱くらいかなと思っていたので意外だった。(ドラゴンボールZ この世で一番強いヤツ : 作品情報 - 映画.com)や(ドラゴンボールZ 激突!!100億パワーの戦士たち : 作品情報 - 映画.com)がとても印象に残っているが、もう上映は20年以上前か。子供の頃は映画館に行く習慣がなかったので、というか徒歩や自転車で移動できる範囲にないし車でも結構遠い、もっぱらビデオを借りて、家族で外食にいったときについでにレンタルビデオ屋も行くというお決まりのコースがあったような気がするがあまり覚えていない。
今回の映画はおそらく3D向けということでバトルシーンがかなりの時間を占めている。そのためかストーリーはすごく単純でフリーザが復活して復讐にやってくるというものだ。ストーリーとしては少し物足りないかもしれない。上に挙げた昔の二本はテクノロジがテーマになっているけど、今更そういうものが悟空とかベジータの脅威になる感じがしないのでどうするんだろうという感じがある。しかも横に本物の神がいて彼らには誰も敵わないということになっている。彼らは余裕綽々と戦闘中もデザートを食べていて、しかもピンチになったときに時間を戻すこともできる。そういう存在が横にいて果して『ドラゴンボール』が成り立つのだろうか。ここにいる神は言ってみれば、『ドラゴンボール』の世界の外にいてゲームのリセットボタンを押すような存在である。『ドラゴンボール』はキャラクターの生き死にはあるが基本的にはスポーツの比喩で物語が動いていると思っていた。しかし、ウイスのような物語の外側でプレイヤーの役をするキャラクターがいるとそれがゲームの比喩に変わってしまう。これでいいのだろうか。
『ドラゴンボール』は後半にそれが形骸化したとはいえキャラクターがそれぞれの願いを叶えるためにドラゴンボールを七つ集めるという設定で物語が進んでいく。最近『リトル・ピープルの時代』を読んで思ったのだけど、『ドラゴンボール』のこの設定だけを見ればこの本にある「バトルロワイヤル系」と分類されてもおかしくない。『リトル・ピープルの時代』では「バトルロワイヤル系」として『仮面ライダー龍騎(以下、龍騎)』が出てくる。
インターネットニュース配信を営むベンチャー企業でアルバイトをする青年・城戸真司は、連続行方不明事件の取材中に用途不明のカードデッキを拾う。その日から鏡の中に生物の気配を感じるようになった真司は、ミラーモンスターという人工生物とその力を用いて「変身」する戦士=仮面ライダーの存在を知る。人類を捕食するミラーモンスターを駆除するため、真司は仮面ライダー龍騎として参戦する。しかしその直後、真司は仮面ライダーの真の敵はモンスター群ではないことを知らされる。仮面ライダーとは、あるゲームのプレイヤーの総称であり、そのゲームとは仮面ライダー同士の殺し合い=バトルロワイヤル(ライダーバトル)である。そして全13人の仮面ライダーたちの中で生き残った最後のひとりは、どんな望みでもひとつだけ叶えることができる。
『リトル・ピープルの時代』p281 宇野常寛
『ドラゴンボール』も『龍騎』もともに何かを奪い合ってある条件を達成すれば、どんな願いも叶えることができることは共通だ。しかし『龍騎』の方はこの本によれば願いは一つしか叶わない。しかも殺しあって生き残ることが条件なので願いを叶えるときには、自分以外の者が死んだあとで必ず一人である。『ドラゴンボール』のほうはといえば、誰かがドラゴンボールを七つ集めて願いを叶えたとしてもドラゴンボールの効力がなくなるのは一時的なもので、また時間が経てばそれらを集めなおして願いを叶えることができる。なのでボールの取り合いになったとしても殺しあうことなく、自分の願いのほうは後ででもいいかという選択や交渉の余地がある。『ドラゴンボール』と『ドラゴンボールZ』の境目、天下一武道会で悟空とマジュニア(ピッコロ)の決着がついたあとで亀仙人は「あなたのつくられたドラゴンボールがなければ今の孫悟空やここにいる者たちの成長や出会いはなかった…たった1個のドラゴンボールからすべてが始まり そして世を守ったのです 」というが、殺しあって一人の世界ではそのような台詞は絶対に出てこないだろう。
『龍騎』の世界は不景気を反映しているのだろうが、全然利害の衝突しないものたち(Aが自分の病気を治したいということとBが復讐を遂げたいということは全く関係がない)がたった一つのものをめぐって、その一回性をめぐって殺しあう。ただ一方でこれはゲームの比喩なので、ある孤独なプレイヤーが時間を戻すことと親和性が高い。バトルロワイヤルの決着がついてしまったらそれ以上話を続けることができない、なぜなら皆死んでしまっているから。ゲームでいえば、クリアしてしまっているから。もう一度プレイしようと思うと、はじめからやり直したり、セーブポイントからやり直したり、リセットボタンを押したりする。何度もそれを行う。それは全て一人のプレイヤーがやっている。彼(彼女)が誰かと出会うとしたら、このすごくマイナーなゲームを何十時間と自分と同じようにプレイしている奇異な人を見つけるということだけである。そんな人は滅多にいないし(そこに奇跡があるのだろうけど)彼(彼女)はずっと孤独のままだ。プレイヤーが動かしているキャラクターがゲーム内設定以上に成長するわけがなく、プレイヤーのリセット前後の記憶を覚えているということもない。それはゲームをしている彼だけが覚えている。
『ドラゴンボール』では複数の願いが叶うことで時間が戻らず記憶が続いていくという風になっているところを、あるところで記憶を断絶させて時間を戻すという物語がある。あまり多くの作品を知らないのだけど『龍騎』『オール・ユー・ニード・イズ・キル』『まどマギ』等、ゲームの比喩のフィクション作品。辛辣な現実(願いが一つしか叶わない、殺し合い)が描かれるが実はゲーム、一人が孤独にたくさんプレイしているみたいなのって、単に貧困だと思うので今はあまり好きになれない。なので、ウイスが今後何度も時を戻すようなことがあるとしたらと思うと不安である。スポーツの比喩でやったほうがいいんじゃないかと思うのだけど。
9/10/2020
更新
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