フレッチャーの空白を叩け セッション

名門音楽大学に入学したドラマーのニーマンは、伝説の鬼教師フレッチャーのバンドにスカウトされる。彼に認められれば、偉大な音楽家になるという夢と野心は叶ったも同然と喜ぶニーマン。だが、ニーマンを待っていたのは、天才を生み出すことにとりつかれ、0.1秒のテンポのズレも許さない、異常なまでの完璧さを求めるフレッチャーの狂気のレッスンだった。さらにフレッチャーは精神を鍛えるために様々な心理的ワナを仕掛けて、ニーマンを追いつめる。恋人、家族、人生さえも投げ打ち、フレッチャーの目指す極みへと這い上がろうとするニーマン。果たしてフレッチャーはニーマンを栄光へと導くのか、それとも叩きつぶすのか?
INTRODUCTION | 映画『セッション』公式サイト

セッション
(映画『セッション』予告編(4/17公開) - YouTube

そこから見えてくる教え子の若さと才能に嫉妬するベテラン教師の屈折した心情。何も気づかないニーマンの若い野心が招く衝撃の出来事。これまで多くの師弟関係を描く映画が知らぬ顔で通り過ぎた“嫉妬”に目を向けた脚本が新鮮だ。
セッション 鬼教師と若者、ぶつかる激情 :日本経済新聞

「僕は彼のやり方を全然肯定できないし、この映画のなかでは悪役というポジションだ。でも、彼の行き過ぎた行為にもちゃんと理由があるんだってことを見せることはとても重要だった。フレッチャーは音楽を心から愛しているし、多くの悪人がそであるように、自分のことを悪人だと思ってはいない。ただ純粋な音楽に対する愛情を、他人に表現するときに行き過ぎたやり方になってしまうのが問題なんだ」。
今週末から公開! 映画『セッション』を手がけた新鋭監督が語る|ニュース@ぴあ映画生活(1ページ)

学内最高といわれるバンドに招かれ喜ぶニーマン。だがフレッチャーの指導は異常だった。完璧さを追求し、少しのズレも許さない。生徒を猛烈にののしり、時には手も出す。その過激さは、スタンリー・キューブリック監督の「フルメタル・ジャケット」で、新兵を追いつめる鬼教官を思わせる。兵士の訓練ならともかく、ジャズを教えているだけなので、なおさら異常だ。
「セッション」(米) : カルチャー : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

フレッチャーの指導は異常である。これはとんでもないアカハラだ。彼は音楽について何もわかっていない凡庸な指揮者だ。彼はアンドリューの若さに嫉妬している。ただ理不尽な指導をしたいだけ、などなど。そうもかもしれない。しかしそれだけだろうか。彼の思想は一貫している。フレッチャーはアンドリューの事故後以前自分が指導していた自殺した生徒の責任を取らされ学校をやめる。その後ジャズバーのようなところでピアノを弾いているところに、アンドリューが現れる。その時はアンドリューも音楽学校をやめている。そこでフレッチャーがアンドリューに語ったことは真実だろうと思う。なぜならそれについての行動が映画全体に垣間見えるからだ。

Terence Fletcher: There are no two words in the English language more harmful than "good job"

グッジョブ!いいね!クソ食らえというわけ。なぜなら彼がその後チャーリー・パーカーを引き合いに出して語るように、何かの表現に対してgood jobとしてしまうこと、それに相手が「自分はよくやった」と満足してしまうことで物語が終わってしまうからだ。チャーリー・パーカーになれるはずの人間の成長をそれ以前の段階で止めることになってしまう。

Terence Fletcher: I was there to push people beyond what's expected of them. I believe that's an absolute necessity.
フレッチャーは最初に出てきた時から何か変だと思った。彼はアンドリューが一人でドラムを叩いているところにやってきて演奏を見てお前はダメだと言う。しかし、教室全体のなかで皆が演奏している中からスカウトするときにはアンドリューが良いという、スタジオに来いと。そして次で決定的に引っかかったのだが、フレッチャーはアンドリューにスタジオの開始時刻について嘘をつく。予定より3,4時間早い時間に来いと言ったのだ。これは何だろう。ただのいじめなのか、上にもあるように嫉妬?だったら呼ばなければいいと思うが。

バーでの会話で説明がつく。フレッチャーは単に厳しい指導をしているのではない。彼はこうアンドリュー(等)に伝えている。「俺のことは絶対に信じろ。ただし、俺のことは絶対に信じるな。」典型的なダブルバインドである。アンドリューにはそのことを暗にだがわかりやすいように伝えているように見える。集合時刻の嘘がそれだ。アンドリューはフレッチャーが有名音楽学校の教師なので彼に従わなければならないと思っている。そう思っているとフレッチャーは思っているからアンドリューに自分を信じるなというメッセージも同時に伝えている。嘘の時刻、下手なライバル、自分のスティックかどうか。そうすることでフレッチャーは何がしたいのか。もちろん次のチャーリー・パーカーを生み出したいのだが、フレッチャーは誰でもチャーリー・パーカーになれるとは思っていない。そしてフレッチャー自身も誰かその辺の人間をチャーリー・パーカーにするような指導方法、教育についての真実を持っているわけではない。そんなものを求めるものは何かを勘違いしている。

Andrew: But is there a line? You know, maybe you go too far, and you discourage the next Charlie Parker from ever becoming Charlie Parker?

Terence Fletcher: No, man, no. Because the next Charlie Parker would never be discouraged.

フレッチャーにできることは、「俺のことは絶対に信じろ。ただし、俺のことは絶対に信じるな。」と表現し続けることだけだ。彼はいつもそうしている。「俺のことは絶対に信じろ。ただし、俺のことは絶対に信じるな。」の先に何があるのか、その絶対的な矛盾を弁証法的に乗り越えた先にあるのは「自分を信じろ」ということだ。識別の段階(フレッチャーが何を考えているのか)から賭けの段階(自分がどうするのか)へ移行せよというわけだ。アンドリューはそれを最後にやってみせた。いや、それでは語弊がある。彼は無意識ではそのことをわかっていた、そうでなければ最後まで努力をし続けることができなかっただろう。

Terence Fletcher: Andrew, what are you doing?

Andrew: I cue you!

フレッチャーが表すのは世界の閉塞そのものではないか。誰かが何かについて良いと言い、他の誰かが同じものについて悪いと言う。そういったものが無限に思われるようにある。そういう世界が広大なネットワーク上に溢れているが、基本的には生きていくには何かに賭けるしかないのだろう。でなければフレッチャーの一挙手一投足を気にしているだけで物語が終わってしまう。それはまずい。パブロフの犬の実験をやっていてもしょうがない。

参考『精神と自然―生きた世界の認識論』ベイトソン

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)』マックス・ヴェーバー
これも関係しているかもしれない。天職というものをどう考えるか、天職という思想、世俗内禁欲にどう至るかという意味で。禁欲といってもヴェーバーが言うのは何か我慢するとかいうことではなくて、「これだ」と方向を定めることでその意味で天職ということとほとんど変わらない。アテンション・エコノミーなどと以前は言われていたが、自分のアテンションのほとんどをどこに向けるのかといったこと。
9/10/2020
更新

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