意識の在処について、呪怨とトランセンデンスから

2つの映画を見て意識について考えざるをえないだろうと思ったわけですが、意識について正確に語るなんていうのは完全に準備不足なので、多少の知識と映画の印象と身勝手な推測のブリコラージュで(ブリコラージュ以上の何かがどこかにあるとも思ってないですが)お届けすることになります。霊的なものとテクノロジーの交差については、以前『BORDER』の批評で書いたものがあります。「kitlog: 痕跡過剰の果てに、思い出す事など」。(ネタバレあり)

清水崇監督が生み出したジャパニーズホラーの代名詞「呪怨」シリーズに連なる一作で、同シリーズの恐怖のアイコンである佐伯伽椰子と俊雄がもたらす新たな恐怖を描いた。小学3年生の学級担任を務める結衣は、不登校を続けている生徒・佐伯俊雄の自宅を訪問する。しかし、佐伯家は踏み入れたものすべてが奇妙な死を遂げる「呪われた家」で、その日を境に結衣の身にも不可解な現象が起こり始める。やがて佐伯家の過去が少しずつ明らかになり……。
呪怨 終わりの始まり : 作品情報 - 映画.com

人類の未来のため、意識をもったスーパーコンピューターを研究開発している科学者ウィルは、反テクノロジーを掲げる過激派組織の凶弾に倒れるが、妻のエヴリンによってウィルの脳はスーパーコンピューターにアップロードされる。消滅するはずだったウィルの意識はコンピューターの中で生き続け、やがてネットワークの力によって地球上のあらゆる知識を手に入れ、予想もしない進化を始める。
トランセンデンス : 作品情報 - 映画.com

トランセンデンス
(映画『トランセンデンス』予告編 - YouTube

人工知能は、強い人工知能と弱い人工知能に分けられます。いま、われわれのまわりにある人工知能、たとえばアップルの「Siri」やIBMの「Watson」などは、すべて弱い人工知能、つまり「意識のない」人工知能です。Siriは賢いけれど、意識をもっているとは誰も思いませんよね。一方、強い人工知能とは、意識をもった人工知能です。

意識、すなわち、知性をもった人工知能を判断する方法としては、数学者アラン・チューリングが考案した「チューリング・テスト」が有名です。

まず、コンピューターと人間が、お互いに見えないように壁を隔てて対話するとします。音声で対話するとしゃべり方でわかってしまうので、キーボードとディスプレイを使います。その対話のみでは、壁の向こうの相手がコンピューターか人間か判定できないなら、それは人間と変わらない、つまり、意識をもっていると考えていいと、チューリングは考えました。機械の中身はブラックボックス、つまり、どうでもいいと言うわけです。

このチューリング・テストに異議を唱えたのが、哲学者のジョン・サールです。彼は「中国語の部屋」という思考実験を提示しました。ある部屋の中に英国人がいる。部屋の外には中国人がいて、部屋の小さな窓から中国語で書いた質問を入れる。中の人は中国語がまったくわからないが、「こんなかたちの文字が来たらこう返す」と詳細に書かれたルールブックを持っている。これを調べて、それにしたがって答えを書いて返す。

外の人間から見れば、中国語で質問して中国語で返ってくるので、中の人は中国語ができると思う。けれども、実際には中の人は中国語を理解していない。これは知性とは呼べないじゃないか、とサールは言うわけです。要するにサールは、人工知能は意識をもつことはできない、ということを証明したかったのです。

これに対して、カーツワイルはこう反論します。自分の脳細胞は、シナプスもニューロンも英語なんてわかっていない。けれども、わたしは英語の質問がきたら英語で返せる。君はわたしが英語を理解し、かつ意識があると思うだろう?と。あなたに意識があるとわたしが判断するのは、わたしが質問してそれに対してあなたがもっともらしい答えを返してくるからです。つまり、意識とは入力と出力を変換する「応答関数」にすぎないと、わたしは思います。
映画『トランセンデンス』公開記念 WIREDスペシャルページ「2045年、人類はトランセンデンスする?」 « WIRED.jp

”意識とは入力と出力を変換する「応答関数」にすぎない”というのは、技術的認識関心だけが存在するという思考に基づいた一つの認識にすぎないのではないでしょうか。つまり脳科学への関心がそう見せているに過ぎないのではと思うのです。人間が物質の構成要素として原子を発見して以来、人間はただの原子の集まりにすぎないとして、他者と接するようになったでしょうか。様々な記録がハードディスクに保存されるようになって、「あ、今ため息をついたせいで700MBの記憶を失くしてしまった」と思うでしょうか。

こういう言い方をしてしまうと、私の書くこともただの自分の関心に基いている認識だろうということになると思います。実際にそうだと思います。冒頭に記したようにここに書くことは、ただのブリコラージュにすぎない。しかしその事自体が意識であると思うのです。

ところで、数年前から「脳と化学」の授業でも話している、「0.5秒遅れて、意識は現れる」という科学的知識は、今一度深く考えてみる必要がありそうです。最近、2002年発行の「ユーザーイリュージョン」という大部な本を読む機会があって、この本の著者であるトール・ノーレットランダーシュの深い考察に感銘を受けました。その「意識の遅れ」現象の発見者であるベンジャミン・リベットの「マインドタイム」という本もありますが、ノーレットランダーシュというライターの、エントロピー・情報理論からこころと意識を理解する、というアプローチの「深さ」に感心したものです。

この0.5秒の意識の遅れ、というのは、つまるところ、脳と身体の統合による「こころ・意識の発現」のメカニズムに由来するのです。皮膚という最大の面積を持つ臓器などから、数百万ビット/秒の情報が脳というシステムに送られてきても、私たちは数十ビット/秒という情報しか処理できずそれが「意識」なのだ、ということです。その処理に時間がかかり、それが「0.5秒の意識の遅れ」となって観察される、というわけです。脳は、柔らかな「情報処理マシン」と いう捉え方をされますが、魑魅魍魎ともいうべき有象無象な無意識、あるいは潜在意識ともいうべき大量の情報が脳に入ってきても、そのほとんどは捨てられて、そのうえでようやく、その極々小さな情報である「意識」という情報が生まれてくる、というわけです。

明確な意識というものは、そのバックグランドには魑魅魍魎な無意識、即ち捨てられるべき大量の情報があってこそ生まれている、ということが理解されると、その意識が生み出した人間の社会、文化、科学、都市、そして文明も、その背景にあった多様な人間の身体がイメージされるのではないでしょうか。
遅れてくる意識

認知科学の分野では人間が普段行っている単純な認知行動でさえ、無限量の知識が必要なことが明らかになっているらしいです。人間はそれによる情報処理の限界を常識によって回避しています。しかし人間にとって明白すぎて当然のことでもコンピュータにそれをやらせようとすれば、それを一つ一つ教えなければいけません。昨今、車の自動運転の開発が目覚ましいですし、将棋で人間とコンピュータが対戦するなんてことも行われるようになっています。将棋であれば予め、駒の位置、動き、着手の順番は決定されているので、その中で行われることは透明に見渡すことができます。しかし現実世界では一瞬一瞬に無限の情報があるために、自動運転ではセンサーの数を限定したり、パターン認識によって情報量を減らすなどの努力が行われているようです。GoogleCarは一秒間に約1GBの情報を処理しているらしいです。今後自動運転の勢いが続けば都市は将棋盤のように車にとって都合よく計算可能な方向に進むでしょう。

Google’s self-driving car gathers nearly 1 GB/sec | KurzweilAI


人間は一瞬一瞬情報を減らして認識しています。一瞬のすべてを認識しようとすれば無限の時間が必要でしょう。ですから、人間は一瞬一瞬のうちに現在から「遅れて」しまっているのです。無限の一瞬には絶対に追いつけない。ものを書くことを考えるとわかりやすいですが、頭のなかで考えていることをそのまま書こうとしても書いてるそばから他のことが浮かんできて書くことは考えることに追いつけないでしょう(意図的に考えることを減らせば別ですが)。寄せては返す波を一瞬ごとに書き続けることもできないし、書いているうちに様々な時間の波のイメージが重なってしまい、波のイメージをその中から取り分けなくてはならなくなります。それは「遅れ」の認識なくては起こりえません。そしてそう認識するところに意識が在ると思うのです。ただ普段の人間の行動は常識が支配しているので、「遅れ」が認識の中心になることはあまりありません(絶望しきっている人間は常に「遅れて」いるために、意識が過剰になりがちとはキルケゴール。

では「遅れ」は映画とどう関わるでしょうか。

シェリングは”隠されているはずのもの、秘められているはずのものが表に現れてきた時はすべて気味わるいと呼ばれる”と書いていますが、隠されているはずのもの秘められているはずのものとは人間が「遅れ」の際に瞬間の中に置いてきてしまったもののことではないでしょうか。それが幽霊そのものだというのは言うまでもないですが(死者は時々思い出すくらいで普段は記憶の隅においておかないと何かと都合が悪い)、呪怨で最も怖かったのは主人公の結衣が天井裏を探すシーンですが、私は彼女が発見したものを最初人形だと思っていました。しかしそれは人形ではなくて死体であり、遠くの暗いところで目が動いた時に、人形だと思って隅に避けていた情報(その家の妻が殺されているなど)がぐっと表に現れてきてドキッとしました。逆に人間が特殊メイク等で人形に見えてしまう場合はそれほど怖くはないなと思いました。ただ、怖いっていうのは人が怖がるから怖い、つまり映画を見てる時は映画館内の観客は隠れていて、誰かが怖いというリアクションをするとそれが現れてきて怖いというのがあると思うのですが、地方の平日の一番朝早いので見たのであまりお客さんはいませんでした。なのでもうちょっと人が多い時に入ればまた違うのかもしれません。

モーガン・フリーマンが演じる学者ジョセフはこう言います。「あいつらは軍隊を作っている」と。「ん?」と思いました。ウィルがアップロードされた後、つくっていたのはバイオやナノテクによる人間や物質の再生や復元の技術です。これで軍隊をつくっていると言えるか、ということを考えてみると、それは進んだ技術への恐れから来たものだろう、人間の進歩では何十年もかかってしまう技術に対する恐れ、それに直ぐ様追いつけないという「遅れ」が彼をしてそれを軍隊と言わせたのだろうと思います。ラストあたりのセリフでも出てきますが、ウィルは人知を超えた技術を開発しはしましたが誰も殺さなかったのです。大量破壊兵器はありませんでした。最初のTED風のスピーチの質問でウィルは「あなたは神をつくりたいのですか」と問われ「ああ、人類はいつもそうしてきた」と答えます。ジョセフはこれを人類を支配するという意味で取るのですが、実際はウィルは妻が喜ぶことを実現したいと思っているにすぎませんでした。ウィルとジョセフの間の「遅れ」は小さな戦争を終えるまで解消せずに終わりました。ジョセフが「遅れ」の認識をウィルに伝えることがなかったからです。

両方共どうしてこうなったのか?という映画、呪怨の場合はどうして幽霊出てくるようになったのか、トランセンデンスの場合はどうして電気のない世界になってしまったのか、「問題解決型」の物語ではなく「世界開示型」の物語なので物足りなく思われる人もいるかもしれません。物語の内部で登場人物が問題を解決しようとすればするほど、問題解決の作法自体に呪われてしまうためなんとなく後味が悪い気がしてしまうかもしれません。

(Jorma Kaukonen Genesis - YouTube
しかしですね、トランセンデンスのエンドロールとともにこの曲が流れてくるんですね。すると、これはもっと単純なラブストーリーと考えていいのかと思えてくるんですね。そうすると呪怨も似たようなものに見えてきて最後の涙もそういうことなのかと。

彼の愛の故にかえって人間が普通には決してなりえないような悲惨な状態に人間を陥れることがありうるのである。ああ、愛における底知れぬ矛盾よ!だからといって愛の業をなすことをあえて棄て去ることは彼には愛の故に忍びない。ああ、だがもしそのことのためにかえって人間を彼が普通には決してそうならなかったであろうような悲惨な状態に陥れることになるとしたら!
キルケゴール『死に至る病』p206

『トランセンデンス』に出演している個性派俳優のポール・ベタニー
「カフェに居る若者を見るけど、携帯をいじっていて相手の目も見ないんだよ」と切り出すと、「僕が若かった時は好きな子の目を子犬みたいにじっと見つめたものさ。本当は飲めないエスプレッソと本当は読んでない本を手に一人席に座って、美人が僕に気付くのを待ってみたりね(笑)。でもこんな光景、今はもう見られない。誰も目も見ないんだよ。どうやって今の人たちが関係を築けているのか、もう僕には全くわからないよ」
ポール・ベタニーから若者たちへ「携帯ではなく相手の目を見て」 - 芸能 - 最新ニュース一覧 - 楽天WOMAN
9/10/2020
更新

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