「被害者」のブラックボックス

被爆2世として生まれ、耳の聞こえない作曲家として知られる佐村河内(さむらごうち)守さん(50)の、代表曲「交響曲第1番 HIROSHIMA」などの楽曲について、十数年前から特定の別の人物が作曲してきたことが5日、分かった。代理人の弁護士が明らかにした。

代理人が報道関係者に送ったファクスによると、佐村河内さんはこれまで、すべて自身が作曲したとして活動してきたが、実際は、楽曲の構成やイメージを提案し、特定の別の人物が具体化する形で創作を続けていたという。この人物の側にも「作曲者として表に出づらい事情がある」ことから、佐村河内さんの単独作として発表してきたという。
佐村河内さん:曲は別人作…十数年前から 弁護士明らかに - 毎日新聞

「全聾の」、「被曝2世」という属性の作曲家が全聾であることを偽り、作曲にゴーストライターを使っていたらしいということが話題になっている。で、それについて彼の事をよく調べもせず、彼についてのドキュメンタリを作るなどして持ち上げた側が問題だという議論が起こっている。

事実を知れば知るほど、実に「巧妙なウソ」だったことが分かる。

言うまでもなく、天才作曲家とされた佐村河内守氏のことだ。

テレビ関係者もまんまとダマされていた。

元テレビドキュメンタリーの制作者で現在はテレビ批評をやっている私のところに週刊誌や新聞記者などから次々に電話がかかってくる。

「それにしてもなぜテレビドキュメンタリーで長期取材した時にウソが見抜けなかったのでしょうか?」
「テレビドキュメンタリーで取材する時に事実の確認はしないのでしょうか?」


そんな質問を記者たちから投げかけられる。

しかし、結論から先に言えば、仮に私自身が佐村河内守氏のドキュメンタリーを企画し、取材したとして、そのウソを見抜けたのか、と問われたなら、それをウソだと見抜くことは難しかっただろう。おそらく、私もまんまとダマされただろうと想像する。

それくらい新聞・雑誌記者やテレビ制作者、視聴者・読者たちの「心理」をついた巧妙なストーリーだったのだ。
「聴覚を失った現代のベートーベン」佐村河内守 なぜテレビはダマされたのか?(水島宏明) - 個人 - Yahoo!ニュース

「なぜ騙されてしまうのでしょうか。」それはとても簡単ではないでしょうか。ちょうど現在も進行形で「明日、ママがいない」が問題になっており、上と同じ人が次のように書いています。

全国児童養護施設協議会が、児童養護施設で暮らす子どもの中にドラマを見て自傷行為に走った子どもが複数いるとして日本テレビに対して謝罪を求めていた問題については、

「養護施設協議会からはプライバシーの問題があるとして、どこの誰というふうに教えてもらえないので、具体的にどんな被害があったのかを把握できない。このため、日本テレビとしては被害を確認できない。よって今の時点ではおわびできない。もしも被害があったのであればおわびしたい、という言い方しかできない」

と説明されたと病院側は話している。

具体的な被害について日本テレビ側に伝えられない事情について、東京都内にある児童養護施設の施設長は、

「全国児童養護施設協議会による実態調査は、ごくわずかの施設で目立たないように実施したもの。傷ついている可能性がある子どもに向かって、あのドラマを見てショックがなかったかなどと尋ねることは、そうした質問そのものが子どものフラッシュバックを引き起こす恐れがある。そういう問題を配慮しながら調査することは実際にはかなり難しい。そんな状況で、自傷行為に走った女子児童のケースが報告されたのだから氷山の一角と考えるべきだ。確認できないからおわびしない、という態度にはやはり施設にいる子どもたちへの無理解を感じる」

と疑問を呈している。
【速報】「明日ママ」で日本テレビが慈恵病院を訪問 内容変更の方針を伝達(水島宏明) - 個人 - Yahoo!ニュース

この問題については、ドラマの内容に変更を加えるかもしれないという記事が出た時に、以下のようにつぶやいたのだけど、



「被害者」として周りから認められている人にはつっこんで、その人の状態や来歴などを調べにくくなっているのだと思います。なぜなら、そうやって調べることが「被害者」を傷つけるということが「常識」になっているからです。それは上の引用の施設長のコメントからも分かるでしょう。「被害」については「被害者」が誰にでも分かる実害を引き起こさなければ調べられないのです。調べられないのですから、実質的には対処の仕方がとても限られることになります。何か相手方のデータが有ればお互いに譲歩して、次のやり方を決めるというフェアな取引も可能かもしれませんが、それもできないのです。そのような「被害者」を心配したコミュニケーションの拒否の結果、「被害者」が「渇望しつつ恐怖する」という特権的な存在に追いやられないか心配になります。

一通のコメントで断言はできないが、佐村河内氏は、神秘性をまとった権力者として、自身の計画を実現するうえで必要な人たちを支配しようとしていたのではないか、という気がする。新垣氏も、そんな支配の構図の中に、知らず知らずのうちに絡め取られていたのではないか。

それは、必ずしも苦痛ではなく、指示をよりよい形で実現する喜びのようなものもあっただろう。自分がやっていることを自覚できないまま、「指示されるがまま」に曲を書き続けてしまった、という新垣氏のコメントは、自分の仕事の結果が何をもたらすかについて関心を持たなかった信者の状況を、ほんの少しばかり彷彿とさせる。
彼はなぜゴーストライターを続けたのか~佐村河内氏の曲を書いていた新垣隆氏の記者会見を聴いて考える(江川 紹子) - 個人 - Yahoo!ニュース

試みに、ほんのひととき、ひとのいうことなすことに全く心を使うようにし、想像のうちで、行為している人びとと一緒になって行為し、感じている人びとと一緒になって感じてみたまえ、つまり諸君の共感にその最も広い拡がりを与えてみたまえ。魔法の杖にひとふりやられたかのように、諸君はいとも軽いものでも重くなり、そして全てのものに厳粛に色がつくのを見るであろう。次に、引き離れてみたまえ、我関せずの見物人となって生に臨んでみたまえ。多くのドラマは喜劇に変ずるであろう。ダンスしている人びとが我々にすぐさま馬鹿らしく見えるためには、ダンスが行われているサロンの中で、音楽の音に我々の耳を塞ぎさえすれば十分である。

笑い (岩波文庫 青 645-3)』ベルクソン pp14,15

「人権擁護!」の時代にあって「被害者」とか「マイノリティ」とか聞くと途端に共感し、同一化し、遠近法を失い、彼らとの距離のとり方が分からなくなっているのではないでしょうか。どのような距離が適切かは決められるわけもありませんが、当事者感覚を勘違いし彼らと一緒に感じ、重いものでも軽いと軽いものでも重いと感じてしまう感覚は少しは疑ったほうがいいのかもしれません。人々のダンスの最中で耳を塞いでみる勇気も必要でしょう。もちろん全聾と偽る必要はありませんが。

批評の凋落を嘆くようなひとたちは、おろかだ。というのも、批評の刻限はとっくに終わっているのだから。批評するには、正しく距離を取らねばならない。批評は、遠景や全景が重要であるような世界、ひとつの立場を取ることがまだ可能であったような世界に住みつくのである。だがいまでは、事物はあまりにもぎりぎりと、人間社会に押し迫ってきている。「とらわれのなさ」とか「自由な視線」とかは、ただの無能力の素朴きわまる表明でなければ、虚偽になりさがってしまった。こんにちでは、事物の奥底に迫る最も実質的な視線は、商業的な視線であって、それは広告と呼ばれている。それは、自由な考察の余地を取り払い、事物をぼくらの鼻先へ危険なまでに近づける。

暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)』「一方交通路(抄)」 ベンヤミン p180
4/18/2019
更新

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